「連帯責任よ!」。不満げな声を上げる長女に、妻が言った。中学や高校の教師が叫んでいた言葉を、久しぶりに聞いた気がする。大人になって改めて考えると、この言葉は少なくない場面で誤用されているように思う。ではそもそも、連帯責任とはいかなるものであろうか。
「連帯で責任を持て」ということだから、ある局面においては当事者だけでなく、周囲の人間も一丸となって事に当たり状況を改善せよ、という意味であろう。
また連帯保証というと、主債務者の支払いが滞った場合に、連帯保証人が代わって支払わねばならないようなイメージがある。しかし本来の法的解釈では、単純に「共同責任」という意味合いが強く、これもまた「共同で事に当たる」という意味になる。すなわち、発生してしまった『状況を改善するために』、連帯するというのが、連帯責任なのだ。
一方で、誤用されていると感じるのは、「連帯責任」が「連帯処罰」として用いられる場合である。例えば、A君の失敗や行為に対して罰を与える際、同じクラスやグループのメンバーまでも一緒に罰を与えるような場面だ。これは連帯責任というより、『連座』と言うべきであろう。「連座」という言葉について、辞書にはさまざまな説明がなされている。例えば、
- 他人の犯罪に対し、特に罪のない仲間や親類が連帯責任を負わされて罰せられること。家族や仲間に迷惑をかけたくないという心理が働き、犯罪の抑止力が期待された。
- 一人の犯罪について、特に罪のない特定範囲の数人が連帯責任を負って罰せられること。まきぞえ。
- 刑罰の一種で、罪を犯した本人だけでなく、その家族などに刑罰を及ぼすことである
(出典省略)
連座は周囲の者が『状況を改善するために協力する』という余地がまったく存在せず、そこにはただ 『罰を受ける』 という強制力しかない。しかも、『連帯責任』と言って連座させようとする場合には大抵、その事件が発生する以前に、「連帯責任」が課せられる事実を周囲の人間は告知されていない。
例えば、昼休みの校庭でサッカーをしていた男子生徒ら。A君が蹴ったボールが教室の窓を割ってしまったとする。そして教師が言う。「お前ら連帯責任だぞ!」。そしてA君だけでなく、同じクラスの男子全員が処罰される。
そこには事態を改善する余地がすでにないし、ガラスが割れる前の時点で「連帯責任」があることについて、男子生徒らは説明さえ受けていない。そしてこの時、図書室で静かに読書に耽っていたボクまでも連座されられた事実は、極めて遺憾と言うしかない。
そもそも連座は近代法哲学から逸脱した制度であり、民主的な国家では刑法上から姿を消している。日本では公職選挙法違反の場合にのみ例外的に適用されるものの、それ以外での適用は認められていない。
ではなぜ、このような誤用が発生するのだろうか。考えてみれば、そもそも連帯責任という言葉自体は悪くない。むしろ組織の団結力を高め、一人では成し得ない高いパフォーマンスを生み出す原動力になるとさえ言える。
要するに連座させようとする行為、即ち直接に関係のない者に対してまで処罰を与えようとする行為自体に問題があるのだ。そして連座という行為を正当化しようとするときに、意味合いの「連帯責任」という言葉を用いてしまう。これが間違いなのだ。更に悪いことに、比較的良い意味でつかわれる「連帯責任」という言葉を充てることによって、あたかも連座が正当なことのように受け入れられてしまう現実がある。保護者や教育者が肝に銘じるべきは、「連座を命じない」ということであろう。
妻は「連帯責任よ!」と言ってテレビを消した。テレビに釘付けで、夕食を食べない次女への対処だったから当然、同じ処分を受けた長女は不満気だった。しかし2歳の妹の口にスプーンを運び、甲斐甲斐しく世話を始めた長女を見ると、これこそまさに連帯責任という言葉が当てはまる。
「二人とも、ちゃんとご飯食べないとテレビ消すからね」と事前に言っていた妻の指導は、極めて正しかったと言うしかない。